love is life

 私の友達に高橋定次郎氏という人がありました。この人は前にも話しました通り、高橋鳳雲の息子さんで、その頃は鉄筆で筒を刻って職業としていました。上野広小路の山崎(油屋)の横を湯島の男坂の方へ曲がって中ほど(今は黒門町か)に住んでいました。この人が常に私の宅へ遊びに来ている。それから、もう一人田中増次郎という蒔絵師がありました。これは男坂寄りの方に住んでいる。どことなく顔の容子が狐に似ているとかでこんこんさんと綽名をされた人で、変り物でありましたが、この人も定次郎氏と一緒に朝夕遊びに来ていました。お互いに職業は違いますが、共に仕事には熱心で話もよく合いました。ところで、もう一人、矢張り高橋氏の隣に住んでる人で野見長次という人がありました。これは肥後熊本の人で、店は道具商で、果物の標本を作っていました。枇杷、桃、柿などを張子でこしらえ、それに実物そっくりの彩色をしたもので一寸盛籠に入れて置物などにもなる。縁日などに出して相当売れていました。この野見氏の親父さんという人は、もと、熊本時代には興行物に手を出して味を知っている人でありましたから、長次氏もそういうことに気もあった。この人も前の両氏と仲よしで一緒に私の宅へ遊びに来て、互いに物をこしらえる職業でありますから、話も合って研究しあうという風でありました。

 ここで、少し断わって置かねばならぬことは、こういう門弟たちのことは別段興味のある話しというではなく、また事実としても、いわば私事になって、特に何かの参考となることでもありませんから、深く立ち入り、管々しくなることは避けたいと思います。
 それに、最早世を去った人などのことはとにかく、現存の人であって見れば、私と師弟関係があるだけ、毀誉褒貶の如何に関せずおもしろくないと思いますから、批評がましいことは避けます。それに、自分では、今思い出すままを、記憶に任せてお話することで、疎密繁閑取り取りですから、その辺はそのつもりでお聞き下さい。とにかく、私の覚え帳に名前の乗ってるだけの弟子の数も五、六十名に達することで、一わたり、ざっと話して置きましょう。

 三月十二日にお雇いを拝命すると、間もなく、岡倉幹事は私に奈良見物をして来てくれということでした。岡倉氏という人はいろいろ深く考えていた人であって、私がまだ今日まで奈良を見たことがないということを知っていたので、私にその方の見学をさせるためであったことと思われます。これは氏の行き届いた所であります。
 私と、結城正明氏とが一緒に行くことになりました(結城氏という人は狩野派の画家でありました)。両人ともに往復十日間の暇を貰いまして、旅費百六十幾円かを給されました。まだ東海道の汽車が全通しない頃でありましたから、私たちは横浜へ出て、船問屋の西村から汽船で神戸へ着き、後戻りをして奈良へ参り、奈良と京都の二ヶ所について古美術を視察見学したのでありました。私は生まれてから江戸の土地を離れたことがないので、今度こうして長旅をすることになったので、いろいろ旅ということについておかしい話もありますが、それは略するとして、とにかく、今度の旅行は、美術学校の教官として実地見学に出向くのでありますから、学校の正服を着けて参らねばならない。これが始末が悪いので閉口しました。